原爆孤児
郡部の町村に集団疎開していた広島市の学童(小学校3年以上)は2万3,500人に及ぶといわれる。原爆により市内にいた両親(保護者)を亡くした子どもたちは、2,000人とも6,500人ともいわれている。また被爆当時広島市にいて保護者を亡くした「被爆孤児」も数多くいた。この両者を合わせて「原爆孤児」という。
彼らの救済は1945(昭和20)年10月に被害の少なかった比治山国民学校に比治山戦災孤児育成所が設置されたのに続いて、12月には山下義信夫妻の手で佐伯郡五日市町(現・佐伯区)に戦災孤児育成所が開設された。その後も、原爆孤児を受け入れる施設が設けられたが、原爆孤児の中にはさまざまな理由から、施設に入らず、靴磨きなどをして自分で働きながら生きていく子どもたちもいた。
これらの原爆孤児たちの育成のため、彼らを精神的な養子とし、精神的な親が年額20ドルの養育費を送るという「精神養子運動」をノーマン・カズンスが提唱した。反響は大きく多数の米国人が名乗りを上げた。1950(昭和25)年から1959(昭和34)年までの10年間続けられ、その間に約500人、総額約2,000万円の援助がおこなわれ、子どもたちを支えたのであった。
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