教室も教科書も十分にないけど、学校がはじまった。 学童疎開(そかい)していた子どもたちも広島に帰ってきました。広島市内の学校も、原爆(げんばく)で焼けてしまったり、原爆被災者(げんばくひさいしゃ)の救護(きゅうご)所や収容所(しゅうようじょ)として使われていたりして、子どもたちが校舎で勉強できる学校は、4分の1くらいしかしかありませんでした。 それでも、ほかの建物を借りて授業(じゅぎょう)をしたり、校庭のガレキをかたづけて「青空教室」を開いたりして、少しずつ勉強できる環境(かんきょう)がととのっていきました。
●青空教室
●「原爆孤児(げんばくこじ)」
●慰霊式(いれいしき)に出席した原爆孤児(げんばくこじ)たち (広島市似島(にのしま))